グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ


創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第一章 ヤマザキの創業】


ホーム >  会長ブログ >  創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第一章 ヤマザキの創業】

 126年前、どういうきっかけで創業があったのか。ご紹介したいと思います。

 山崎家の私からしますと、曾祖父にあたる山崎惣吉という人は少し商売気のあった人で生活のために天秤棒を担いで魚を売り歩くような、素朴な商売を始めたようです。それが明治23年ごろの話だと家族の言い伝えになっているだけのことです。惣吉の息子兼吉は、船大工の一族の末端にいた血筋から船大工修行もしたようです。

 たまたま、算術が得意だったこともあって、天秤棒商いに転ずることになります。16~17歳の頃のようです。兼吉が私の祖父にあたるわけですが、明治32年祖母『きん』と結婚。この『きん』さんが私が12歳になるまで長生きしたので、この方からいろんな家族の歴史を聞きました。およそ物持ちの悪い家族で、過去の書き物とか、記念のものとかは全く残っておらず、言い伝えを少し書き綴ろうと思います。

 兼吉さん、この『きん』との結婚が契機で、商いに増々精を出すようになったようですが、その実態は断片的な祖母の言葉でしか記憶していません。先ず、どんな商売だったかですが、浜で捨てていた鯖やイカを塩にしたり、少し干したりして若干の加工をする。翌朝2時、朝だか夜だか解らないような早朝に天秤棒に両荷を振り分け、走るようにして富士川を駆け上がる。昼過ぎには、鰍沢に着いたというのだからよくわからない。

 70キロ近い距離を、荷物を背負って12時間くらいかけて駆け上がる。「浜の一円は、鰍沢の十円だった。」という説明が祖母の説明だった。それほど、彼の地では魚が貴重で儲かったという意味である。これがまさしく原資蓄積になる。貧乏な船大工の小僧は、徐々にいっぱしの青年になっていく。

 そこで兼吉が考えたのは、買ったり売ったりの利ザヤのことでなく、他人にできない一次加工処理のことだったという。塩にする。一夜干しにする。これがヒントで、鰹節の世界に入っていくことになる。明治の末期、駿河湾沿いの海岸の青年たちは皆、節づくりに熱中したようだ。先進地だった伊豆田子に学び、土佐までも研修に行ったようだ。鰹はいくらでも浜に上がった。だから、原料は何ぼでも手配できたようだ。こうなると、少し食品加工企業の体裁になってくる。

 大正の終わりごろだと思いますが、缶詰の技術が普及しだす。魚の缶詰とみかんの缶詰、昭和に入り缶詰工場の周年稼働が可能になったという。『きん』の言葉を借りれば「みかんの一斗缶のはんだシールの瞬間、また一円儲かったと思った。」という。清水の港からアメリカなどに輸出していたようだ。

 いいことは続かないものでして、昭和16年4月2日、兼吉死亡、脳卒中だったそうです。私の父『愛太郎』は、その名の通り、祖父が溺愛した嫡男でしたが、この時18歳。商業学校を卒業したばかりの子供ですから、祖父の事業を継承するには幼すぎたようです。


・・・次章へつづく。