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創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第三章 父 愛太郎、母 千の苦難の人生】


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 ここで、復員後の父を主人公とする新たなヤマザキの歴史が始まります。

 この辺からは、父『愛太郎』や母『千』から聞いた話が混ざってきます。なぜか不思議に『兼吉』の遺徳は思いのほかで、祖父と縁のあった人たちが助けてくれて、戦後の混乱の中でもいろんな原料が集まった。昆布と棒だらは、その一例である。昆布はどうしていいか解らず、ほとんど畑の肥やしに。失敗だったが、棒だらは「桜でんぶ」として商品化できたようだ。このミニヒットは、ご近所の水産加工業の方たちにも少なからず影響を与えたようだ。

 この頃、昭和23年1月、山崎愛太郎は千と結婚。同年11月13日長男『裕』が誕生。まさしく、ハネムーンベイビーだったと聞いた。私は、25年12月23日誕生。弟『宏平』は、28年11月23日誕生。男児3人を授かり、夫婦はとても張り切っていたんだろうと思う。

 昭和29年愛太郎、千の夫婦は、一念発起して「株式会社山崎兼吉商店」を資本金100万円にて設立。これが大きな節目となって、農産原料主体への大転換がはかられることになる。「種をまける原料の仕事をしよう。」農家から嫁いできた母は、水産原料の将来性に懐疑的だった。

 これが煮豆を始める契機となった。実は、この夫婦にとって、この直後最大の不幸が襲う。私の2歳年上の兄は7歳で、鉄道事故で即死。特急に兄がはねられた東海道線の踏切は我が家の裏の踏切でした。当時5歳だった私は、その晩から祖母の隣で寝かされて、我が家の歴史を毎晩聞かされることになったのです。

 さて、煮豆は大苦労しました。最初に手を染めた原料は、大正金時とエンドウでした。どうしてもふっくら柔らかく煮えない。ボイラーも無いわけですから「糠へっつい」が熱源でした。かまどの上に乗って、糠を踏むのが少年『寛ちゃん』の仕事でした。襟の後ろから木のひきぬかが入って、背中がかゆくなる仕事でした。何年かの格闘ののち私が8歳~9歳ごろには、それらしい製品が出来るようになりました。

 私が、8歳の頃に父が殺菌煮豆の話をどこかから聞いてきて、設備を始めたのです。石炭の蒸気ボイラーと殺菌タンク・真空包装機・新しい社員さんの雇用、父は張り切っていました。ところが、昭和34年12月19日、石炭ボイラーが過熱。工場を全焼する大火災を発生させてしまいました。真昼の事件でした。これで、全てが終わりだろう。誰もが思いました。


・・・次章へつづく。