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創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第四章 「それでもやめない」】


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 消火作業が一段落したころ、母が電話口で銀行相手に叫んでいた風景は忘れることが出来ません。「もう一度お金を出して欲しい。」銀行から火事見舞いに見える前に母が支店に電話したのです。

 その日から、赤貧の生活が始まりました。下着も親戚のお古、新しい服は全く買えない。家の米びつにはコメがないという状態も覚えています。母がこんなに強い人だとは思わなかった。富士にあった母の実家は、この時全面的な応援をしてくれて、父の事業を継続できるように、仮の工場の提供や冬休みに入った私たち二人兄弟の居候も引き受けてくれました。仁藤一族の御恩は忘れてはいけない。

 ところが翌年、奇跡が起こる。先ずは筍缶詰。これに甘辛の味を付けて「あらめ」と炊き合わせ、ポリエチレンの業務用袋にゴム縛り。というまことに単純な商品が売れに売れて、それまで佃煮感覚だった商品づくりをぐっと家庭の味に近づけて惣菜風で魚市場を中心に販売したのです。そのことで開けつつあった販路に金平ごぼう・ひじきの煮つけ・卯の花など次々と投入。一方で、煮豆が魚市場経由で販売を始めたら、魚屋さんでよく売れて、しかも魚市場は、翌日現金をくれる。ようやく金が回りだした。

 私も少しでも役に立ちたいと、学校が終わると必ず工場を手伝った。そのうちそれが高じて、うちの近所を120軒、朝の新聞配達をするようになった。2年近く続けて中学一年で辞めるとき父が「子供の新聞配達は、親も修行だった。」と言われ、良かれと思ったことが迷惑をかけていたんだなと後悔したことを思い出す。

 この頃の母は相変わらず気丈で、運転免許を取得し、ライトバンで静岡・浜松・沼津と静岡県中を駆けずり回り、営業、配送、集金を全部やっていた。午前中は製造、午後は得意先回りと必死だった。私は学校が終わると母が居眠りしないように、助手席に乗って配達を手伝った。工場の叔母さんたちはよく働いてくださった。女性が活躍するのはこの仕事の宿命か。


・・・次章へつづく。