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創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第六章 寛治の少年時代】


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 1969年ごろから15年間、煮豆の真空包装は400g・300g・250gと少しずつ包装形態が小さくなりながら売れ続けた。思えば、この収益が私自身の成長と覚醒のプロセスに時間を与えてくれたのだと思う。煮豆という商品が出来上がるまでの父母の苦労に感謝しなければならない。

 さてこの辺からは、私自身の話だ。私は、兄『裕(ゆたか)』の死以来、かなり細かい記憶まではっきりしている。棒だらで作った「桜でんぶ」、貝の紐や、小女子の佃煮、そして本格的な煮豆の製造など、その場面、場面を思い出す。祖母は、毎晩私を横に寝かせ、山崎の家族のこと、兼吉の生き方のこと、商売の原則のような話、連続講座だったと思う。今でも時々「商売は信用だ。」「錢は先に払え。」「あきんどは、始末はしてもケチはダメ。」などなどの今思い出せば面白い話が沢山ある。祖父兼吉が、売り買いより加工を大事にしたという話は、とても強烈な印象で私の記憶に残っている。第一章で記した内容はほとんど祖母のこの講座の記憶です。

 私はなぜか、いとこから貰った「少年伝奇物語」を小学校の5・6年生ごろに読み、その中の高杉晋作・坂本竜馬・岩崎弥太郎などの話を随分熱心に読んで感化されてしまう。そしていつの間にか貿易で身を立てたいと考えるようになった。いろいろと気の多い子だったようで、先に記したように、5年生の秋に自分の小遣いぐらいなど思って、それほど考えも無く新聞配達なんかも始めた。朝5時起きはつらかった。

 この時代は、子供にとって夢のある時代だったような気がする。勉強や学校より、社会に興味があったような感じだ。兄「裕」が死んだ無人踏切でその後も、多くの不幸があった。最後は、東北の方から働きに来ていた出稼ぎの女性が、電車にはねられ即死。思い出すのも怖い話だが事故後、飛び散った体を拾い歩く人の姿を見たとき、いつになったらこの踏切に遮断機が付くんだろうと心の底から願いを立てたことがある。

 そしたら、2年もしないうちに警報が鳴る踏切になり、それから2年もしないうちに自動遮断機が付いた。この時代、少年には、余りにも惨めと感じる日常の矛盾を真剣に解決している大人と社会の進歩がとても頼りがいがあり、力強く感じることが出来ました。願いは、努力によって必ず実現できると素直に思える時代だったのかもしれません。


・・・次章へつづく。