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創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第八章 何をして良いかわからない】


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 1975年1月、日綿実業株式会社を退職、静岡に戻った。売ればいいのだ。営業するのが大事だ。それはわかっていた。でも何をして良いかわからない。その時の株式会社ヤマザキは従業員総数11名だった。とにかく売るしかないのだ。

 そんな時、幸せにも75年10月21日、妻「洋子」と結婚。翌年長女『多恵子』、翌々年に長男『朝彦』が生まれた。その後、二男、二女の6人家族になりました。私は、とにかくわけもわからず、スーパーの時代が来ると思った。清水の駅前にできた西友ストアの地下で、煮豆を量り売りしたこともある。日綿実業株式会社時代には4億円の小切手を受け取っていたのに、100円いただくためにこんなに頭を下げなければならないなんて。世間の解らない人間だった私は、売れなかった日の帰り道、情けなく涙を流してしまったこともある。どこかで、仕事にはっきりとした目的や使命感を持たなければ、自分がすさんでしまうと考え始めていた。

 1975年静岡に帰って半年ほどして、ある人に教えられ「商業界」という雑誌を購読するようになり、大きく流通が変わろうとしていることを感じた。それからは、増々スーパーの時代が来ていると確信するようになった。しかし、毎月読んでいくうちに、倉本長治氏の思想や、「店は客のためにある」というキャッチフレーズの下、流通革命を起こそうとしている一団が、スーパーの大きなうねりを起こしていることに気付くようになった。その最先端を突っ走る異端児が中内功氏であった。

 当時のキミサワやヤオハンとも取引を始めることが出来た。我が社の看板商品である煮豆を売り込むことが出来た。それでも、何のための商売だろうという自分の内側にある疑念がどうしても消えない。結婚を挟んでのこの一年半は、ある意味迷いの時間だった。


・・・次章へつづく。