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創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第九章 料理を商品にする】


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 「息子は、スーパーの売り込みをやりたいらしい」父は、心配してくれて「富士の駅前にイト-ヨーカドーというスーパーが出てくる。これからでも遅くないので、息子さんが売り込みに行ってみたらどうかと、テナントビルオーナーである富士農協の幹部がアドバイスしてくれた。寛治行ってごらんよ。」と言ってくれた。76年5月の話だった。私は、早速煮豆を包装して、イトーヨーカドーの本部へ行った。そこで初めて「料理を商品にする」という言葉に出会う。

 三番町にあったイトーヨーカドーの本部は小さなビルで、東証2部上場を果たした後、1部に上場なるかと言われていた当時で、若々しい私とそれほど年の変わらない川西さんという方が相手をしてくれた。サンプルを見て「煮豆は沢山売りに来る人がいますよ。それより我が社に穴沢さんという食品本部長がいて、その方から『料理を商品にするという仕事の仲間になりそうな人を探せ』と言われている。それを考えるつもりは有るか。」と聞かれた。私は考えるところがあった。これは、とても深い意味のことを言っているのかもしれないと思った。

 商品にする ⇒ お金で買えるようにする ⇒ 社会分業にする

 そうだ、料理は社会分業になる。早速家に帰って父に言った。「お父さん、イトーヨーカドーは惣菜の仕事をやってほしいようだよ。すぐにサンプルを作って持っていくから。」父も賛成してくれた。「やってみよう。」

 すぐに考えたことは、聞くと面倒そうで、作ると割と簡単というメニューだ。何品か作って見本にもっていこう。これからは母の活躍だ。一週間後20品目位のサンプルを持ってもう一度イトーヨーカドーを訪問する。約束も何もせずに来たから川西さんはいなかった。とりあえず、「川西さんと穴沢さんに食べて欲しい。」と言い残し、見本を置いてきた。ところが蒲原へ戻るまでの間にもう電話があった。父が「寛治、イトーヨーカドーの川西さんから電話が有って、あれでいいから早く納品開始してもらいたいと言っていたよ。」

 これが大きな契機となった。ついに1976年7月から総菜の仕事を始めた。毎日4時起きの早朝作業が始まる。



・・・次章へつづく。